<時代の動きとともに生まれた東京會舘>
西洋文化の波が街中に広まり始めた頃、東京會舘は開場しました。社交場の活用がまだ一般的ではなかった時代。「世界に誇る施設ながら、誰もが利用できる人々が集う社交場」を目指し、東京商業会議所会頭の藤山雷太、帝国劇場専務 山本久三郎、西洋料理店・三田東洋軒主人 伊藤耕之進が開場のために尽力。当時には珍しいルネッサンス様式は大いに話題となりました。しかし1923年、関東大震災が初代本館を襲います。消失や倒壊は免れたものの、余儀なくされた休館。営業再開に4年を要しましたが、本物の味とおもてなしに特化した「東京會舘スタイル」をこの時に確立し、「社交の殿堂」と名を馳せました。1934年には日本初となる鮮魚介料理店が誕生。その店こそが現在、東京會舘を代表するレストラン「プルニエ」です。
1937年に日中戦争が勃発すると事態は急変。鉄製支柱は供出され、1940年には大政翼賛会が徴用し「大東亜会館」と改称。さらに1945年にGHQの接収を受け、「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」として受託営業し、1952年まで将校クラブとして重用されました。